2006年12月28日
正義とは何か?

正義とは何か?(What is Justice?)とは,2006年12月に実施された公式エッセイコンテストにおいて日本地域からの応募作品の総称。日本地域の破片世界で独立して募集および審査が行われ,ブリタニア統治評議会・司法局推薦作品およびライキューム推薦作品が選出された。受賞した二作品は,2007年1月30日にトランメル世界ライキュームの図書室に設置された。

Floating Cat 著(ブリタニア統治評議会・司法局推薦作品)
religio 著(ライキューム推薦作品)
sayuri 著(ライキューム推薦投票次点)
ROBE 著(ライキューム推薦投票3位)
Yajirou 著
Hayase 著
Belle 著
rakurima 著
SIEGFRIED 著
J.Wolf.Blues 著
Francius 著




Lord Veritas, ブリタニア統治評議会
ブリタニア統治評議会並びに司法局では、人々が模範とするべき正義の徳の本質について次の作品が最も適切かつ明確に述べているという意見で一致した。この作品はブリタニアで最も優れた書写家によって書き写され、真に徳を極めんとする求道者たちが閲覧できるよう適切な場所に設置される予定だ。

ブリタニア統治評議会・司法局推薦作品
正義とは何か?
Floating Cat 著

かつてソーサリア各地にはびこる悪の軍勢を打ち負かし、ブリタニアという統一国家を築きあげたロード・ブリティッシュ王は人間が生きていく上で何が最も重要とされるべきか、その答えを探し求めた。

時空を越えた探索の旅の果てに王がたどり着いた答えは『人は善良であるべき』という基本原則であった。 徳(Virture)を磨き、善人になる事で人は己を越えた力を発揮する事ができる。王は徳の根源として真実・愛・勇気の三原理があり、それらの組み合わせで作られる8つの徳の形を示した。

正義(Justice)は8つの徳のうちの1つで真実と愛を原理とし、慈悲深き公正さを意味する。天秤のシンボルに表されるこの徳は何よりも物事の真実を冷静に判断できる目とその真実を守り貫き通す事のできる強い意志を必要とする。そしてそれらを愛によって追求する事により、公正な正義をもたらす事が可能になる。

正義の徳を考える上で重要な事の1つが、正義を構成する三原理の内に勇気が含まれていないということである。勇気に代表される徳は武勇(Valor)であり、この徳は逆に真実と愛の原理を含まない。武勇は全ての徳を守る為の衣と成り得るが、戦いの中で振りかざされる剣は時に真実を曇らせるものである。
正義の徳の体現者、アバタールコンパニオンの1人であったユーのドルイド僧・ジャーナ(Jaana)のとある領地での逸話はこの事を如実に物語っている。

彼女は地方都市の巡回判事として山深い城壁に囲まれたこの領地を訪れたが、町では長年交易商人を悩ませ続けてきたゴブリンの親玉が捕らえられていたところであった。
祝宴で酔った町の人々はジャーナに正義の名の下に行われる裁判によるゴブリンの死刑宣告を求めた
ゴブリンが捉えられた経緯を知ったジャーナは武勇と名誉の名の下に行われた戦争で捕虜となったゴブリンに正義による裁きは必要ないと断るのだが、町の人々はこれを心好しとしなかったのである。
酔いもあり、次第に暴徒と化しつつある群集を前にジャーナは明朝、裁判を執り行う事を宣言した。
翌日裁判が行われるとジャーナのゴブリンに対する判決は驚くべきものであった。
「ゴブリンは自身の性質と種族の慣わしによって町や商人に対する略奪を行っていただけで法律を犯したわけではなく、正義の名の下に有罪とされるものではない。よって、釈放する・・・」
町の人々は大いに驚き、そして怒りをあらわにした。しかし正義による裁きの名の下に下された判決を不服とする民衆にジャーナもまた憤りの目を向けた。
「あなた方は名誉と武勇の名の下にこのゴブリンを処刑する機会があったにも拘らず、正義による裁きを望んだ」
正義ではこのゴブリンを処刑する事が出来ない。一夜明けて酔いの醒めた町の人々は自分達の愚かさに気付いたが時すでに遅く、ジャーナの裁きに従わざるを得なかったのである。

多くの人々は正義の本当の意味を誤解し、また、真実に対する追求も甘いものに成りがちである。そのような状況の中で見失われがちな真実をいかに白日の下に晒し、武勇や名誉、その他の徳に惑わされずに正義による裁きを行うという事がいかに困難で時に苦痛を伴うものかお分かりいただけるだろう。
真実のみを原理とする誠実の徳はこの問題に対する是非を問うものではない。愛のみを原理とする慈悲の徳をもってこのゴブリンの行いに対する真実を鑑みてみれば、釈放してこの獣を再び野に放てば以前と同じように罪もない人々に襲いかかり、また多くの命が失われるかもしれない。 しかしジャーナは真実と愛を原理とする正義の徳の使途であり、その精神を実現する者である。自ら獣を野に放つ際に深手を負ったジャーナがその町の人々の前に姿を現す事は2度となかった。

もしあなたが正義の徳を極めようとするのであれば真実を明らかにする事に一切の妥協があってはならない。そして愛をもってその真実のあり方を正しい方向へ導く事ができた時、本当の意味での人を守り、教え導く為の魂の安定を得る事ができるであろう。




Culver,ライキューム司書士
皆様におかれましては、先日行われたライキューム推薦作品の投票にご参加いただき誠にありがとうございました。この度、投票によって選ばれた作品をライキューム図書室にて公開させていただきましたことをここにご案内させていただきます。数多くの作品の中から、名誉あるライキューム推薦作品に選出されたreligio氏著の「正義とは何か?」は徳に対する優れた考察がたとえ話を通して見事に表現されております。多くの皆様にこの類稀なる名著をお読み頂き、真実と徳の更なる追求のきっかけとしていただければ幸いに存じます。

ライキューム推薦作品
正義とは何か?
religio 著

貧しげな身なりをした子供が、あなたの庭のリンゴを盗んだ。犯人を追いかけ、腕をつかんで捕まえたあなたは、その腕の細さにおどろく。人の持ち物を盗むという行いはもちろん不正である。だが、その子をまず愛によって許せるなら、盗みという行いだけでなく、空腹にたえかねてつい手をのばしてしまったというやむをえざる事情もまた、真実として認めることができるはずである。そしてふたつの真実をくらべたとき、あなたの心が正義ではなく慈悲に傾いたとしても、それはあやまりではない。

正義とは真実を愛によって見出し、そののちに正しい行いを選ぶことである。慈悲をもって飢えた子供の罪を許し、食べ物を与えることが、どうして正義によってさまたげられよう。正義が真実の名のもとに行われるものであり、しかもいたずらに人を傷つけるためのものでないならば、愛による許しは不可欠である。相手を許す心を持つことで明らかになる真実があり、その真実が正義とは異なる解決を導くことがあったとしても、むしろ正義は真実を公平にあつかい、その判断を助けることによって役割をはたしているというべきである。

正義のいう正しい行い―すなわち法は、正義の一部であり、最後に頼るべきものである。それは私たちのくらしの複雑さにくらべて、あまりに数が少ない。法にのみ従い、良心にもとづく判断をやめてしまうようなことがあれば、私たちの日々の幸福はたちまち失われることだろう。同じ理由で、私たちはある行いだけに目を向けることをさけねばならない。ひとつの行いに心をうばわれれば、私たちはたやすく怒り、悲しみ、あるいは喜ぶ。それらは愛がかたよった姿であり、真実に対する公平さをあやうくする。そして真実のバランスを欠いたところに、私たちは正義の裁定を求めがちである。くりかえすが、法による裁きは私たちが最後に頼るべきものである。

真実と愛の両方に支えられて初めて、正義のいう正しい行いは私たちを納得させる。だがそれでもなお、法には用心してしすぎるということはない。法はそれが用いられる以前から用意されているものであり、そのことは正義というものの頼もしさであるともいえるが、しかし法は正義のすべてではない。法が何物にも優先するなどと考えるのは、まさに真実に対する公平さを欠く態度であり、正義に反する。正義はあくまで真実と愛とによって形作られ、この二つによる私たちの選択に何ら異論をはさむものでないことを忘れてはならない。




正義とは何か?
sayuri 著

真実と愛の要素からなる「正義」とは、一体どういうものなのでしょう。

我らが親愛なる八徳の王の示された「正義の徳」は、 “正義は人の営みにおいて正しい事と誤っている事の見極めであり、 そして、その正しさへの愛である”と説明されています。

つまり、正義とは、さまざまな事柄からなるこの世界から、真実(世の理)を見出し、その真実への愛(世の理を慕う心)を実践すること、なのです。

私たちが住むブリタニアには、ありとあらゆるものがあります。 どれも、なんら不規則に行われているのではなく、必ず世界の法則に従って存在し、変動し、消滅しています。 その法則を「世の理」という事にします。

そしてそれは、人間やエルフたちのかかわりにおいても同じことが言えます。 私たちは自由奔放に生活しているようでも、「物を奪わない」「傷つけない」「殺さない」などという、有形無形の規範に沿って生きているのです。

そのような規範を、私たちは共通の意識の中で了解し、程度の差はあれ、受け入れています。皆が規範を受け入れているからこそ、私たちは相互に安心してブリタニアで生活できているのです。 ならばこのような規範も、私たちの「世の理」ということができるでしょう。

こういう、世の理に思いを致し、それを慕い実践する。 それこそが正義なのです。

だからこそ、世の理を乱す者たちには相応の報いを与え、時に教え諭し、世の理に沿うようにさせる、、、。そういった不断の営みが、正義の行いとよばれるのです。

ところで、「正義は誰にでも行われるが、だれの所有物でもない。」ということも、とても大事なことです。世の理はある誰かの恣意によっては変化しないものだからです。なので「自分だけの正義」いうものは存在しませんし、「その時々の都合にとって変化する正義」というものも存在しないのです。

また、正義のよりどころは普遍的な世の理なのですから、皆に同じ正義が行われれば、皆に同じ正義の結果がもたらされるはずです。 同じ正義の結果がもたらされることを「公平」といいます。 だから、公平であることは正義を行うためには必要不可欠なのです。

貴方が正義を振りかざそうとするときは、いつも次のことを思い起こしてみてください。 目の前の相手が、活気満ちた青年でも、花篭を持つ乙女でも、敵意むき出しの野盗でも、老獪な魔術師でも、 同じ正義を振りかざせるか? もし答えが「否」であるならば、貴方の行為は正義の名に値しないものなのです。公平ではないからです。

さて、正義が「世の理に近づけようとする行為」であるのなら、正義には必ず、何らかの力が伴われることになります。 力を伴わなければ、正義は行い得ません。 ただし、正義と力の関係を、私たちは決して見誤ってはなりません。 正義の実現のために力が道具となるのであって、 力を肯定させるために正義があるのではありません。

大きな力が私たちにおよぶとき、私たちはまず、それが「正義のためのものか否か?」をしっかり見極める必要があります。 正義のための力なら、私たちは従わなければなりません。 しかし、それが正義のための力でないのなら、その力に対して、私たちはありとあらゆる手段で抵抗することができるでしょう。

不用意に正義の力をかざす者たちに注意して、正義について深く考えをいたすことができれば、私たちは恐れずひるまずに、どんな力にも対応できます。

我らが親愛なる八徳の王は、正義を私たちの徳目として示してくれました。

しかし、それを実践するためには、私たちは常に真実(世の理)について、客観的に探求していかなければなりません。

私たちが真実への探求をやめたとき、ゆがんだ力が正義の仮面をかぶって忍び寄っても、危険に気づかず、知らない間にゆがんだ力に支配されてしまうでしょう。

真実への愛という正義の営みは、決してひと時も途絶えさせてはならないのです。




正義とは何か?
ROBE 著

 先日行われた裁判を公聴し、私はただ唖然とした。なぜなら、「正義」を信奉する街であるユーの裁判所で、このような公判が行われるとは全く考えていなかったからだ。
 私はユーにほど近い所に住み、拙著を販売することで生活している。そして勿論、この地に住む多くの人々と同様に、正義の徳を探求している者の一人でもある。
 本書は、より多くの人々が読み、正義の徳をより正しく理解する指標となることを目的としている。徳への理解を深め、正しき徳の恩恵を受けられる一助となればと思う。

 さて、正義の徳について述べる前に、この世界の法と徳について簡単にではあるが述べておきたい。まず、私達人間の法には三つの原理徳が存在する。三つの原理は真実・愛・勇気であり、私達が生きていく上での全ての根源がこの原理である。この原理を元として、八つの徳が定められている。八つの徳は、誠実・慈悲・武勇・正義・献身・名誉・霊性・謙譲である。これらの法を私達が理解し、より積極的に接することができるように、三つの原理を象徴する施設や八つの徳を表す神殿が存在し、ブリタニアのそれぞれの街でも信奉されている。
 ただ、全ての事象に表裏があるように、この法にも対極に位置する法が存在している。三つの原理の対極に位置するのは、虚偽・憎悪・臆病である。八つの徳の対極に位置するのは、欺瞞・軽蔑・卑劣・不正・貪欲・恥辱・奈落・驕りとなる。
 私達の法についての詳細な解説は、偉大なるロード・ブリッティッシュの著書である「徳」に譲りたいと思う。是非ご一読されたい。

 さて、正義の徳は、ドルイド僧のジャーナ女史(イアナと呼ばれることもある)によって体現された徳であり、愛を持って真実を追求することにより、公正な正義を施すことである。公正さ・公平さとも呼ばれるこの徳は、その名を表すのに相応しく天秤のシンボルで表現されている。
 本書の冒頭で述べたように、この徳はユーの街で信奉されている。公正さを示す街にふさわしく、裁判所があり、罪人などを収容する刑務所も併設されている。また、この街にはエンパス・アビー(修道院)も存在し、森を愛するドルイド僧達が住んでいる。

 ここからは、より正義の徳についての理解を深められるよう、リカルド氏の裁判について検証したいと思う。彼は蛇族から秘宝を盗み出し、蛇族との戦争の一要因になった罪により、正義の法廷にて裁かれることとなった。しかし、多くの正しき人は気づいているはずだ…この法廷が根底から公正ではないことに。なぜなら、今回の事件は戦争に関わる事件だからである。では、なぜ戦争に関わる事件だと裁判によって裁けないのか。それは、正義の徳を体現したジャーナ女史の物語からも読み取ることができる。
 アバタール・コンパニオンのジャーナ女史は、ドルイド僧である。ドルイド僧の一族は、正義の徳にその一生を捧げ、古代から公正さを護り続けてきた。高等裁判所で正しき裁きを行うと共に、各地を渡り歩く巡回判事も派遣している。ジャーナ女史も、この巡回判事であった。

 さて、ある時、ある町を彼女が訪れた。ゴブリン族による襲撃に脅かされていたその町の人々は、終にそのリーダーを捕らえ、饗宴の真っ最中であった。そこに彼女が訪れたので、人々は口々に法の裁きを訴えたが、彼女は、「このモンスターは戦争で捕まったのだから、戦争に関する事件である。戦争は名誉と武勇により治められ、正義はそこに介在しない。」と答えたのである。そう、戦争に対して正義は介在しないのである。

 しかし、今回は戦争に関わる事件であるにも関わらず、法廷で裁かれてしまった。この法廷は、果たして公正なものであっただろうか。また、私達の正義の原理である、「愛を持って真実を追究」していただろうか。より公正な裁きであれば、リカルド氏を裁くことができない、これがこの法廷の真実である。くだんの物語でも、ゴブリン族のリーダーが無罪とされたことからもわかるように、私達の法が及ばない世界が存在する。彼の事件も、同様なのである。

 他種族の法として、ガーゴイル族を例に挙げよう。古くから私達の生活を脅かしてきた彼らは、私達が思っているよりも遥かに高い文明を持ち、文化的な生活を営んでいた。彼らは私達とはまた違った三つの原理と八つの徳に従って生きていたのである。三つの原理は、管理・情熱・勤勉であり、八つの徳は、目標・感情・忍耐・均衡・達成・正確・統一である。このように、多くの種族には異なった文化・法があり、私達は己の法が何を治め、何を公正とするかを正しく理解し、追及しなくてはならないのである。

 正義の徳の原理は、非常にシンプルである。

 「愛を持って真実を追究する」

ただそれだけなのである。

断片的な事実に惑わされず、愛を持って真実を追究して欲しい。 それが、私が今一番望み、より徳への理解を深める近道なのである。




正義とは何か?
Yajirou 著

 愛をともなった真実を正義といい、全てのものに平等であろうとする徳だ。 

 正義は王に対しても、奴隷に対しても同じであろうとさせる徳である。王であるからといって媚びへつらって優遇してはならない。奴隷であるからといって軽んじて酷く扱ってはならない。相手の身分や自分の利益の為に差別をするようでは、真実を曲げてしまうだろう。正義には真実がなければならず、真実こそが全てのものに対して平等なのだ。

 「真実以上に他人を愛してはならない。正義はひいきをしないものなのだ。」ユーのドルイド僧ドワップはこう言った。正義に愛は重要なものであるが、度を過ぎると正義ではなくなる。何かを愛するあまり、他人を貶めたりしてはならない。愛を平等に注ぐことこそが正義なのだ。

 正義は愛をともなっていなければならない。ユーの住人ピンロッドは言った。「武力に正義を見いだすことは難しい。はがねとは正義にとって行為者、慈愛にとっては加害者なのだ。」と。愛をともなわない真実は、往々にして暴力となりうる。正義のためといって安易に武力を用いるべきではない。

 いかに正義を標榜しようとも、真実をともなわなければ独善であり、愛をともなわなければ暴力となる。正義を執行するにあたり、肝に銘ずるべきである。




正義とは何か?
Hayase 著

正義とは何か?
この問いについて考える時に、まず念頭に置くべきことは、道徳や規範の存在理由、すなわち「道徳や規範は何のために存在するのか」という点であろう。

道徳や規範は、万人の幸福を希求し、それに寄与するものであるべきである。なぜならばこれこそが、人が自主的に道徳や規範に従う最大の理由であるからだ。
道徳や規範は社会に秩序をもたらし、無秩序状態が生み出す際限のない闘争や、生命と財産に対する脅威を軽減させる。それによって己自身を含め、社会に属する万人が生存や幸福を追求することを容易たらしめるからこそ、人は時に短期的な利益を犠牲にしてまでも道徳や規範に従うのである。

もし一個人や一党派が、己の幸福のため君に一方的な犠牲を要求し、それが道徳や規範であると称したとしよう。君はそれに従うだろうか。おそらくは従うまいし、彼らの主張は不当であると感じるだろう。人が道徳や規範に従うのは、結局のところそれが万人の、ひいては自身の幸福に寄与するがゆえである。そしてこの社会全体が享受する利益こそが、道徳や規範の存在理由であると言えるだろう。

さて、この前提をもとに正義という概念を定義するならば、それは以下のようなものとなるように思われる。

「正義とは理非曲直を正すことにより、万人の幸福に寄与することを良しとする価値基準である」

だがこの定義は極めて抽象的である。なぜならば理非曲直という概念が具体的にどのようなものを指すのか、この定義では明確にされていないからだ。 我々は理非曲直という言葉を知っている。だがその具体的な内容、すなわち「何が正しく、何が誤っているのか、その判断基準は何か」という点になると、少なくともヒューマンやエルフの間ではおおよその一致が見られるものの、それでもなお人によって細かい意見の相違があることは否めない。 とはいえそうした差異を承知の上で、あえて一致点に目を向けるならば、我々はそこによく知られた道徳規範を見出すことができる。すなわち、ロード・ブリティッシュの唱えた「正義の徳」である。

ロード・ブリティッシュはその著書「Virtue」において、正義の徳を「真実」と「愛」という2つの原理徳より構成される「愛で和らげられた真実」と説明した。この分析は抽象的ではあるものの、我々の考える「理非曲直」の本質を鋭く突いているように思われる。

正義の徳における「真実」の原理は、すなわち客観性と論理の尊重である。誰もが正しいと認めざるを得ない客観的事実を基盤に、論理的演繹によって結論を導く。この姿勢は正義を正義たらしめる、一方の軸であると言えるだろう。真実の原理の反転は「偽り」である。嘘や誇張、事実の隠蔽、誤解や偏見、論理の破綻、法や規範の拡大解釈。こうしたものを含んだ結論は「真実」たり得ず、従って正義たり得ない。

そして正義の徳のもう一方の軸は「愛」の原理である。人は誰しも一生のうちに、多かれ少なかれ何らかの過ちを犯してしまうものだ。しかしその一方で、人は過ちから学ぶことも、それを償うこともできる。
また人は時として、故意や不注意ではなく誰にも予期できない因果の巡りから、結果的に他者を不幸に陥れてしまうこともある。だがそれは果たして責められるべきことだろうか。正義の徳における「愛」の原理とは、そうした情状を酌量することで人と社会が、より成長し繁栄する可能性を生み出そうという姿勢である。愛の原理の反転は「憎悪」である。これはすなわち、怒りや憎悪に基づく報復が正義たり得ないことを示している。また、更正の機会を奪う厳格な処罰や、規範の文面をなぞっただけの表層的な処分などは、「愛」が欠けているがゆえにこれも正義たり得ないと言えるだろう。

言葉を変えるならば、真実の原理は「理」であり、愛の原理は「情」である。 そして理非曲直とは、この両者の調和から生まれる「情理」であると言える。

正義の徳とはこの「情理」に基づいて、自らを律すると同時に他者の過ちを正し、もって万人の幸福に寄与せんとする姿勢である。




正義とは何か?
Belle 著

過日リカルド容疑者の裁判が行われた。彼が元凶になったといわれているオフィディアン戦争では、多くの市民の命が奪われ、また平穏な生活を送ることができなくなった者が続出した。そのため裁判には高い関心が寄せられたはずである。

しかし有罪の評決が下った今、何か払拭しきれない漠たる思いを持ちはじめた市民も多いのではないだろうか。即ち、周知のことであるが、この裁判では国家反逆罪の条文が付加されたり、弁護士への退廷命令後被告人本人が自己を弁護(もっとも裁判長による意思確認はあった)するなど、被告人不利の状況下で手続が進められた感が否めなかった。結果、被告人は有罪の判決を受けたが、この裁判で果たして正義は貫かれたといえるのだろうか。また、そもそも「正義」とは何をいうのだろうか。

ここで「正義」を私なりに簡単に定義してみよう。
この点、「正義」とは、「道理にかなっていて正しいこと」であると考える。そしてこの定義を前提とする以上、「正義」は個人の問題ではなく、複数の他者に関わってくる問題になる。なぜなら評価をする対象が必要になるからである。したがって「正義」に対する考え方は、価値観や思想の違いの数だけ存在し、絶対的なものが存在しないことになる。 また、ブリタニアにおいて「正義」の徳とは、「人の営みにおいて正しい事と誤っている事の見極めであり、そして、その正しさへの愛である」とされてきた。

ここで裁判を振り返ってみよう。
最終弁論において、原告ブリタニア政府を代表するカスカ検事は「王国の正義」を熱望し、被告人リカルドは「正義」を貫くことを希望した。カスカ検事の主張する正義は、ブリタニアの大衆が望む正義である。これは平和といってもよい。そのためにオフィディアンには本来適用されない法を適用し、国家反逆罪に認定すべき行為を追加するなど、およそ法治国家とはいえない行動をとっている。罪に問われるべき行為がオフィディアンの宝を奪ったことである以上、オフィディアンらによって裁かれるべきであり、ブリタニア統治評議会が関与する場面ではない。統治評議会が議論すべきは「リカルド容疑者の身柄の引き渡し」である。即ち、正しい事と誤っている事の見極めができていないともいえよう。

一方、被告人リカルドの主張する「正義」は、冒険者が主張する正義である。ブリタニアに生活する一市民として、この意味が成立することを否定することはできない。しかし多くの市民の命が奪われた事実がある以上、彼には正当性を主張するだけでなく、犠牲者への配慮が必要であった。即ち、正しさへの愛が足りなかったといえよう。しかしこの定義によってでさえ、正しい事、誤っている事の見極めには主観が入るし、正しさへの愛には個人差が生じる。

つまるところ、ある国家における「正義」は、その国に存在する人の数だけあるということなのだろう。その中で「正義」を実現していくには、自己が信じる正義に反する者を屈服させるか、改心させるしかない。つまり、争いが発生するということである。そもそも「正義」が個人の体験に基づく価値観に依拠していることを考えれば、絶対的普遍的な「正義」などありえず、時代によって「正義」の内容は変わっていく。 このように考えると、「正義」はそもそも「平和」とは相容れない概念なのではないかとすら思う。

以上をふまえて、「正義」とは何か。
それは、己が主観的に正しいと信じる道理のことであり、そしてそれが正しかったかどうかを判断するのは後世の人々、ということになろう。そしてその判断が下る日まで、己が歩む道が正しいと信じて歩き続けていくこと―それが「正義」を追求することなのだと思う。




正義とは何か?
rakurima 著

 正義とは何か。

 それは古来よりさまざまな場所で議論されてきた。
 八徳上では「人の営みにおいて正しい事と誤っている事の見極めであり、そしてその正しさへの愛」とされている。

 では何をもって正しいとし、何をもって誤りとするか。
 例えば、放牧場の羊たちに、飢えた狼が襲いかかろうとしている。あなたの手には剣。あなたはその狼を撃退するに足る力を持っている。そこであなたはどうするか。
 狼を撃退することは、一般的に言えば善行と言えよう。あなたは羊たちの命を守り、その羊の飼い主からも感謝されることだろう。しかし同時に、他者の命を奪うことでしか生きられない狼を、飢えによる死の淵へと追いやる事になる。逆に何もしなければ、羊の命、羊飼いの生活と引き換えに、狼は飢えから救われ、活力の充足と大いなる満足感を得るだろう。いずれにせよ、その決断は正しくもあり、そしてある意味では誤りでもある。

 つまり、正義か否かというのは、ある行動についてその社会的善悪を問うことで判断されるべきものではない。では何によって判断されるべきか。私は、「自分の信念に則って行動しているか」によるしかないと考える。

 宗教を例に取ってみると分かりやすい。ブリタニア各地には、実にさまざまな宗教、信仰が存在する。そしてそれらの中には必ずしも倫理的に正しいとは言えない教義をもつものもある。しかしそれを信仰する人々にとってみればそれは正しいことであり、それを信仰する事は正義であると言えよう。逆に、どんなに広く信仰されている宗教でも、万人にとってそれが正しいとは決して言えない。
 つまり、正しいの、誤りだのというのは所詮主観であり、それを判断するのは自分でしかない。ならば自分の正しいと思う行動が、真の正義となるのではないか。

 しかし、ここまでに書いたことはいわば「個人の正義」というべきものである。私はこの他にもう一つ、「社会の正義」というものがあると考える。 社会の正義とは、社会的善悪という観点から物事を見た場合の正しいことへの肯定と、誤っていることへの否定である。そして社会的善悪とは大衆、いわゆる世間によって決められ、時の権力者によって意図的に操作されかねないものである。例えば、大衆の過半数が、あることを悪だと言えばそれは悪になるし、国が刃を向けた相手は無条件でその国民にとっての悪にならざるをえない。
 故に社会の正義とは、その時々の情勢や時代背景によって変動しやすい性質を持ち、且つ個人の正義を押しつぶしかねない力を持ってこの世界に存在する。多くの意思や、権力という鎧を着た意志の前では一個人の意志など重んじられるはずもない。

 しかし我々は常に正義を胸に秘めておかなくてはならない。周りの意見に流されず、自分の意志を貫こうとする時、それはきっと我々を助けることだろう。大勢に抗わんとするとき、それは我々を誹謗中傷から守る盾となり、敵の正義を砕く剣となるだろう。普段は煩わしく感じることや、枷となる事があるとしても、それはいつかきっと役に立つ。

 個人の正義と社会の正義。我々はこの二つの正義の狭間で考え、行動する。そんな中で我々には、不確かな社会の正義のみを信じるのではなく、自身の正義にしたがって判断を下すことが求められる。

 何を信じ、何を正しいとするかについての明確な考えと、それを持ち続ける強い意志。それこそが正義を語るための最低条件であると私は考える。




正義とは何か?
SIEGFRIED 著

「正義」という言葉の定義は、人それぞれ違いがあると思います。 それは、悪に立ち向かう勇気であったり、困っている人に救いの手をさしのべる、優しさであったりするでしょう。 しかし、ブリタニアに存在する「正義の徳」の定義は、「全ての者に対し、平等である事」です。 故に、天秤のシンボルで描かれており、以前は「公平さの徳」とも呼ばれていました。

「正義の徳」は、徳の三原理「愛」「勇気」「真実」のうち、「愛」と「真実」から成り立っています。 ですから、「愛」のみで成り立っている「慈悲の徳」や、「真実」のみで成り立っている「誠実の徳」に、比較的似た性質を持つ徳と言えるでしょう。

「慈悲の徳」の定義は、「分け隔てのない優しさ」です。 他人をいつくしみ、思いやる気持ちがあれば、この徳の習得は難しくありません。 自分の良心に従い、困っている人に救いの手を差しのべましょう。 「慈悲」は人間の本質的な感情の一つなので、8つの徳の中では一番、身近に感じるのではないでしょうか? それ故に、我々の最も身近にあるブリテインの街が、慈悲の街なのかも知れませんね。

「誠実の徳」も、「慈悲の徳」と同じく、その内容はシンプルです。 「誠実の徳」の定義は「他人を欺かず、嘘をつかない事」です。 開いた手のシンボルで描かれており、そこからは、何事も包み隠さないような印象を受けるのではないでしょうか。 基本的に、原理が少ない徳ほど、その内容が分かりやすく、原理の多い徳ほど、その内容は複雑になっています。 「正義の徳」は、「愛」と「真実」の原理から成り立っているので、その内容は少し複雑です。 初めにも触れましたが、「正義の徳」とは「全ての者に対し、平等である事」であり、公平である姿勢を正義としています。

公平であるように務めることは、強い自制心が必要とされます。 この徳は、「慈悲」や「誠実」よりも習得が難しいと言えるでしょう。 例えば、貧しき者が施しを求めてきたとき。その者が二人いて、一人は昔の友人、もう一人はまったくの他人であった場合、貴方は同じ額のコインを二人に与えられるでしょうか? 助けたいと思う気持ちは、当然ながら昔の友人の方が強いでしょう。 しかし、困っているのは、二人とも同じなのです。 ですから、その救済の措置は公正に行わなければいけません。 重要なのは「真実」に目を向けることです。 ここでいう「真実」とは、愛する友に多くコインを与えることではなく、二人には同じ救済が必要である、ということです。

深い「愛」を持ち、しかし毅然と「真実」に目を向けてみてください。 それは正しい道義に繋がるでしょう。

貴方に正義の徳があらんことを。




正義とは何か?
J.Wolf.Blues 著

 正義とは一つではない。十人いれば十人分の正義がある。だから「正義とは何であるか?」と言う問いに、答えを出すことなど出来はしないのだ。

 と書けば、聞こえはいいし、あらゆる追求から言い逃れることも出来るであろう。勝者が正義と言う図式も、なるほど、納得出来る。だが残念なことに、これは偽りなのだ。人の数だけ正義があれば、正義などどこにも存在しないことに等しい。こんなものが正義であっていいはずがない。これは正義ではなく、保身のための手段の一つに過ぎないのだ。  

 どう言いつくろっても、正義は一つでしかないのだから。  

 これほどまでに、正義が遍在してしまった理由は多々ある。その中で最も強く影響を与えたのが、正義の対にある不正であろう。不正とは、文字通り「正しくない」ことであるが、それは何にとって「正しくない」ことなのか。簡単な話である。それは、人にとって「正しくない」ことなのだ。  

 不正。誰であろうと、不正をすることはいけないことだと知っているだろう。だが、それでも行ってしまうことがある。強い誘惑に負けた時、人は不正を働くのだ。とは言え、表立って不正をすることは出来ない。他人に知られれば、どんな形であれ罰せられるからだ。だから、まず彼らはこう口を開く。「これは正義である」と。  

 正義と言う言葉は実に美しく聞こえるものだ。そして誰もがその言葉を知っている。だが、誰もその言葉の意味を知らないし、そこに込められたものを理解していない。だから、誰もが容易く丸め込まれてしまうのだ。正義と言う言葉に包まれた不正は、大手を振って世界を回り、いつしか人々の中で不可侵のものとなってしまうだろう。「正義」だから「正しい」のだと言う、そんな安易な理由だけで。  

 あやふやにしか正義の意味をとらえていない人は、偽物の正義に騙され、そしてまた新しい「間違った」正義を作っていってしまう。初めに教わった正義が間違いならば、そこから出来るものは全て間違いでしかないのだ。不正の詰まった、誤った正義。真実を探ろうとしなければ、いつまでもそのままである。  

 では、正義とは何であるのか? 力なき者を救うことか? 自らを省みず誰かのために戦うことか? よく聞く正義の形ではあるが、どちらも違う。前者は慈悲であり、後者は献身である。ならば、法に則った過ちのない人生か? それとも、公正と言う名の剣で罪人を斬ることであろうか? これもまた違う。前者はそれだけでは正義になりえず、後者は正義に似て、非なるものだ。  

 正義とは、正しき道理。人が歩むべき正しい道程であり、人が誤った道に進もうとするのを、正してやるのがそれである。迷える者に道を指し示し、過ちを過ちだと気付かせてやるのが正義なのだ。そのために必要なものは二つ。  

 一つは真実。真実は得てして隠されやすい。他人には知られたくないという羞恥から、あるいは、罪を隠蔽するため、真実は暗闇に放り込まれる。しかし真実を知らずして、ことの善悪を推し量ることなど不可能なのだ。真実なくして、正義は正義になりえない。真実のない正義は、壇上の道化師と同じである。不正に踊らされる道化師なのだ。  

 もう一つは、愛。それは真実の追究に対する愛であり、人に対する愛でもある。人の過ちを正してやる際に、もし愛がなければ、その時下される正義の鉄槌は文字通り鉄の槌となり、人を無慈悲に押しつぶしてしまうだろう。行き過ぎた正義は独善でしかない。独りよがりな正義は、やはり正義ではない。いかに真実を知っていようとも、愛がなければ意味はないのだ。そもそも、誤った道に進もうとする人を、正しい道に戻してやろうとする行為は、愛がなければ出来はしない。  

 正義とはすなわち、真実を知り、愛を持って人の過ちを正すことである。逆に言えば、愛に溢れ、真実を知ることを恐れない心こそ正義なのだ。正義を貫くと言うことは、隠されたものがどのようなものであっても偉大な寛容さで受け止め、いかに悪しきものでも正してやる、強い意志を持つことである。だからこそ、正義を知り、自らの過ちを知った人の命を奪ってはいけないのだ。正しき道に進もうする者の未来を奪うことは、正義を騙った狂気に過ぎない。それは何の解決にもなっていないのだから。  

 一見、この世界には様々な正義があるように錯覚してしまうかもしれないが、間違ってはいけない。迷ってはいけない。姿は変われど、正義はいつも一つなのだ。どんな時でも、正義には真実と愛が備わっている。真実は一つしかないように。形は変わっても、愛は愛であるように。  

 正義はいつも、真実と愛を持つ者の側にある。どこに正義があるか迷った時は、愛を持って真実を探すといい。愛と真実があれば、そこに正義は生まれるのだから。




正義とは何か?
Francius 著

 友よ、私は悲しい。人々の心から徳は消え去ってしまったのだろうか。何故過ちを過ちと気付かぬ者があれほど多いのだろうか。私がこう言うのは、法と正義をとりまく、あの巷に蔓延る誤った理解についてである。  

 偉大なる三つの原理、即ち愛、勇気、真実が、大いなる八つの徳を生むということは、実に、王が解き明かし給うた通りである。そして、八つの徳、三つの原理は全てに先立ってこの世に存在し、また世の終わりまで失われる事は無い。かのアバタールが導き給うたように、全ての徳と原理を貫く大いなる公理は「無限」だからである。故に徳の一つたる正義も、歴史の始めから終わりまで厳然と存在し続ける。他方、法とは人の造りしものであり、永続性は持ちえない。永続性を持たずして無限の公理に連なることはありえず、故に法は正義ではないのは明らかである。考えてもみよ、法が正義ならば、正義の徳は人の被造物である。そして一がそうならば、八がそうである。慈悲も、誠実も、霊性も、謙譲も、人が造るものなのだろうか。しかし真実は逆である。武勇が、正義が、献身が、名誉が、人を人たらしめているのである。  

 徳と法の関係を理解すれば、法が定めたことが正義である、という考えが誤りであることがわかろう。永久不朽たる正義を、どうして有限なる法が定めることがありえよう。法が定めたことが正義なのではない。正義が法を生むのである。法は正義の乳飲み子であり、母ではない。法が正義を定めると主張する者は、赤子が母親を産む、と言っているのに等しい。母たる正義は永遠の原理に由来し、完全たる存在である。されど、子たる法は人の手に依るものでしかなく、常に不完全なのである。  

 法は人が造ったものだが、徳は人を完成に導くものである。従って、人が裁かれる時、もし法によって裁かれていると考えたのであるならば、それも誤りである。人は、法を犯したが故に徳の道を外れるのではない。正義に背いたが故に、悪しき者となるのである。故に、もしある者が明らかに悪を犯したとして、しかしそれを規定する法が無いからといって、どうして彼が裁かれないことがあろう。彼を裁く法が、その不完全さの故に欠如していたとしても、彼が正義に背いていたのならば、彼は咎人である。人が従って生きるべきは、法ではなく、正義なのである。  

 友よ、君は問うだろうか。ならば法とは一体何の為に存在するのかと。悪を裁くのは正義の徳であるならば、法は不要なものなのだろうか、と。確かに、法をもし正義の模造品として考えたのならば、それはみすぼらしいものでしかない。正義の持つ輝きの前には、法のそれは及びもしない。けれども、そうではない。法は、正義を讃える誉め歌である。素晴らしき正義の徳を褒め称えんと紡がれる、拙き歌声である。その歌声は、人々の間に、正義の徳への畏敬の念を抱かせ、正しき道を歩ませる。それが、法なのである。  

 故に法は、常に人を正義へと導くものでなければならない。法が正しく用いられる時、それは人を正義の徳へといざなう。他方、誤って用いられるならば、それは道を誤らせる。法という灯火の先に正義の徳が輝いているか、我々は常に注意せねばならない。時に、何が正義なのか迷うこともあろう。けれども、正義など無い、徳などないと嘯く者達の言葉に耳を傾けてはならない。徳が無いのではない、その者が見失っているだけである。徳を求める事を捨てた時、その者は徳の道を外れる。されど、徳を諦めることなかれ。諦めずに求め続ける者の前に、徳は自ら顕現する。それは、我々が徳を求める時、徳もまた我々を求めているからである。人は人の力で徳の道を歩むのではなく、徳の力によって歩むのである。我々に必要なのは、そして我々に出来るのは、ただひたすらに乞い求めることのみである。  

 だから友よ。人は、己の内なる声に注意を向けねばならない。正義を唱える時、己が正義の徳を求め、正しく向き合おうとしているか確かめねばならない。放たれる言葉は、愛を追い求めているだろうか。目は、耳は、真実を欲しているだろうか。正義は愛と真実の二つの原理と常に共に在る。愛を、真実を求めること無しに正義を唱えることは、徳に従おうとするのではなくただ我欲に徳を従わせようとする意思である。我々は、徳の前に真摯でなければならない。赤子が母を求めるように、ひたすらに徳を求めなければならない。さすれば、母が赤子を育むように、徳は我々を育む。そのようにして、我々ははじめて、徳の道に生きる事が可能となるのである。  

 友よ、この世には間違いがあまりに多いようにも見える。けれども、諦めてはならない。徳を求め続けなければならない。友よ、我々の一人ひとりが、徳の導きに応えて歩むことの出来るよう、そしていつの日か、全ての民が徳と共に生きることが出来るよう、私は祈って止まない。

投稿者 Siel Dragon : 2006年12月28日 10:27